京極夏彦氏の小説で、あるキャラクターが「神様は願いを聴いてくれる」 と言う話をしていた。
神様は願いを聴いてくれる。 でも、実際に願いをかなえるのは人間だ。(そう言うニュアンスだったはず)
願うことで、自らにかなえるための決意をさせたり(自己暗示)、願いをかなえたいと言う人が集まることで、願いがかなう場と言うか雰囲気が出来上がっていく。
それでは、呪いはどうだろうか?
呪いと祝いは表裏一体。 相手が悪くなるように使うのが呪いで、相手によくなってもらうのに使うのが祝い。
どちらも、願いをかなえると言う点では同じだ。
そして、どちらも相手にかけることで、自分自身に自己暗示でかかってしまうと言う点も、同じだ。
そして重要なのが、呪いはかけていることを知られてはいけない。
呪いをかけていることを知られれば、相手もこちらを呪ってくるので、自分にかかっている分と相手がかけてくる分で、倍になってしまう。
さて、韓国人がやっていることだが、よりによって神社と言う願いがかなう場で、願いをかなえるために奉納している絵馬に、呪いをかけると言ったところだろう。
しかも、それが多くの人々の目に触れる形で…。
何というか、韓国人自ら呪いの自己暗示をかけた挙句、日本人からも恨まれると言う、コンボである。
道理で、韓国人は恨の文化なわけだ。 自分たちでかけていれば、世話はない。
もっとも、そうでもしないと生きていけない程、辛いのかもしれないが…。
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